武田。頼义男新罗三郎义光の末孙也。従四位下。伊予守镇守府将军。童名千手丸。永承五年。後冷泉院依勅。奥州安倍頼时攻。是时诣住吉社。新平复夷贼。干时有神托。赐旗一流。铠一领。昔神功皇后征三韩用也。神功皇后铠脇楯者。住吉之御子香良大明神之铠袖也。此裙之纹。割菱也。三韩皈国後。镇座於摂津国住吉。以奉纳干寳殿矣。今依霊神之感応。干源頼义赐之。可谓希代也。頼义三男新罗三郎义光虽为季子。依父钟爱伝之。即旗楯无是也。旗者白地无纹。铠有松皮菱。故义光末裔当家为纹。
其之四
唐花菱
田大膳大夫贤信
类従本では割菱も并载されている。(注:此即著名的武田菱)
云に左三つ巴。
奉公一番袝?br/>
二つ引両に左三つ巴
具平源氏。赤松兵部少辅政则
四つ目结
宇多源氏。佐々木大膳入道生観(注:京极氏、六角氏之祖)
七宝に花菱
云州佐々木凡此轮违也。塩冶
扬羽蝶
伊势平氏。関
(注:其后皆样式,计四十七张,九十四页。其书极简,其事亦远,故略,改列江户之式)
【三ッ叶葵】
本来は京都贺茂神社の神纹。『见闻诸家纹』では、丹波国船井郡の豪族西田氏が用いている。室町幕府八代将军のころには、まだ徳川氏の家纹として表われていない。西田氏の场合は、古く丹波地方に贺茂信仰が萌していたことによるらしい。デザインはリアルな二叶立葵。三河地方の土豪松平、伊奈氏など周辺豪族をふくめて家纹の発达をみるのは、加茂郡そのものが奈良朝期すでに神戸があったからで、贺茂信仰が古くから盛んであったことによる。つまり、氏子豪族の表示。徳川家特有纹となるのは、庆长十六年以降のこと。
【抱き稲】
『长仓追罚记』によると、熊野の神官铃木氏が用いている。宇多源氏を称した亀井氏(津和野藩主家)は、纪州熊野の穂积氏の出自よいわれる。
【平井桁】
『文正记』には甲斐氏がみえ、『见闻诸家纹』では石井?长井氏がみえる。一般に広く知られているのは、远江から出て彦根藩主となった井伊氏。いずれにしても井の字を、书き文字か図案化したもので、指示的性格をもつ。戦场で旗指物にした场合、一目了然で分かりやすかったのであろう。
【繋ぎ马】
『见闻诸家纹』では、贽川氏や平野氏の「放れ马」がみえる。平将门の後裔とする相马氏は、下総の相马から出て陆奥の相马郡へ本拠を移し、马の饲育放牧を司った。「繋ぎ马」を家纹に用いている。
【梅恪?br/>
前田家一族の纹章として広く知られている。素型は六曜星纹から天神纹へ変わり、利家の晩年顷に轴付きの梅阄皮蓼欷皮い搿H¥思挨螭恰⒈?支を明らかにするため剣梅恪⒍∽置枫などと多様化した。大和の筒井氏も天神信仰により梅阄皮蚴褂谩?br/>
【丸に三つ鳞】
鎌仓幕府执事権北条氏の家纹として有名。戦国以前、早くも『蒙古袭来絵词』のなかに鳞纹は现われている。前北条氏の灭亡後、伊势新九郎が小田原に入り、北条早云を名仱搿R葬帷⑨岜碧跏弦蛔澶渭椅皮趣筏葡谩ⅳ丹椁藪埑浃颏撙搿?br/>
【立ち沢泻】
『见闻诸家纹』には越中松仓城主の椎名氏が用いたとみえている。豊臣秀吉の马标が有名。木下氏の出自だったからといわれる。木下の亲族福岛正则も立ち沢泻を用いた。このほk、大名家としては毛利、水野、土井、浅野、奥平、酒井氏その他が使用している。中国の戦国武将毛利元就が敌を追って川辺に至ったとき、水际に生えていた沢泻にカゲロウが止まっているのを见、「胜ち草に胜ち虫あり」と全军を励まし大胜を収めた话は有名。
【梶の叶】
诹访明神の神纹として有名。『羽継原合戦记』では、信州诹访付近の豪族下条、山辺氏らがみえる。神官の出自をもつ梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも梶の叶纹。大祝の出自をもつ诹访氏は、上原城にあったが武田信玄の攻撃を受け灭亡。のち一族が徳川氏に谊を通じて诹访高岛城へ返り咲く。所领三万七千石。
【丸に三つ叶柏】
『见闻诸家纹』には、热田大宫司の千秋氏をはじめ、宗像大宫司氏郷、神谷、雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日氏などがみえる。山内氏の场合、一豊の父盛豊は织田氏に仕え、丹波の合戦のとき柏の枝を旗指物にして奋戦。胜利したとき枝に残った叶が三枚だけだった。よって三つ叶柏を家纹にしたと『土佐山内系図』に伝えているが、事実は山内一门の柏纹ははるかに古い。足利义満と远祖山内猪右卫门が戦ったとき、すでに柏の指物があったと『别本山内系図』に伝えている。また、奥羽の葛西一族も三つ叶柏纹を使用。
【酢浆草】
『见闻诸家纹』には、小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中沢、多贺、赤田、平尾。长宗我部氏がみえる。三つ叶の间に剣を配した武家好みのデザイン「剣酢浆草」はこのあと、戦国期に入ってからであろう。徳川氏関系の戦国大名では酒井、森川氏などがある。
【丸に唐花菱】
『相国寺供养记』には、武田信在が红直垂に违い菱の缝い纹をつけていたとある。『长仓追罚记』には、大内介が唐菱。甲斐武田と若狭の守护は武田菱。菱鹤は南部纹。坂西は丸に松川菱。赤沢は松皮菱に十文字。远州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一门がベースとなっている。『见闻诸家纹』には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三阶菱。大内氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。
【一つ远雁】
『见闻诸家纹』では、井上右京亮贞忠の二つ远雁。违い远雁が小串氏、进藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ远雁が大芋氏。笹竜胆に二つ远雁が和州の越智氏。丸に三つ远雁が高宫氏。カコの内一つ远雁が高安河内入道永隆と饭尾左卫门大夫之种。『永仓追罚记』には、远雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、祢津、真田氏らが雁纹。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同纹である。
【桔梗】
「土岐の桔梗一揆」といわれるように、桔梗のシンボルのもとに団结した土岐氏一族は美浓に威势を振るった。『见闻诸家纹』でも土岐氏の存在が明らかである。织田信长を倒した明智光秀、秀吉に忠节を尽くした加藤清正などいずれも土岐氏族と伝えられる。また、相模の太田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗纹。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち远江挂川五万二千石。
【丸に抱き杏叶】
『见闻诸家纹』では、大友豊後守亲繁、摂津修理大夫之亲、田村氏、安芸の毛利氏(替纹)、饭河远江守、崎和筑前守などが抱き杏叶纹。近江の目贺田氏が三つ盛杏叶。芸州の厳岛氏、大野氏、温科氏などが杏叶九曜。大友氏は相模出身の豊後守护だが、一族や有力家臣にも与えて同纹の肖趣筏朴庞訾筏俊A⒒ㄊ悉獯笥岩蛔澶趣筏仆啤T獊w元年龙造寺氏が大友宗麟を破り杏叶纹を家纹とする。のち、龙造寺氏を断絶させて杏叶纹を夺ったのは重臣锅岛氏。
【五七の桐】
足利尊氏が後醍醐天皇から下赐されて以来、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の畠山、细川氏をはじめ勲功のあった三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟らに下赐。最後の将军足利义昭も前例にならって、织田信长へ与え、信长もまた秀吉?家康らに与えて优越感にひたる。今日の勲章にも似た価値観があったものか。
【军配団扇】
『见闻诸家纹』では、粟生田次郎左卫门尉経行、矢岛、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武蔵を中心とする児玉党の出自をもつ。三河出身とする奥平氏も児玉党といい、军配団扇纹。
【洲浜】
『长仓追罚记』には、常陆の宇都宫氏族の小田の大辅の名がみえ、『见闻诸家纹』には、安芸の宍戸氏をはじめ陶山氏、越智氏族の寺町氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。云州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜纹。松代の真田氏も一つ洲浜纹。